シカゴ・トリビューン 1989年 3月26日 By Howard Reich (日本語訳)

〔1人の楽団〕
日本人ギタリスト オーケストラ大曲に望む

フルート奏者ジェームスゴールウェイが2年前にオーケストラホールでリサイタルを開いたとき聴衆は大喝采で総立ちになった・・・・がそれはゴールウェイに対してではなかった。

 その喝采と激励の口笛はゴールウェイがコンサートの中で短いソロ演奏を披露させたほとんど知られていないギタリストに対してであった。

 「シカゴでの演奏のことは決して忘れません。」と山下和仁は語る。めざましい演奏家のため即座にオーケストラホールでのソロデビューのための契約が取り交わされた。それが今度の日曜日に行われる。

 「聴衆がどうしてあれほど熱狂的な反応を示してくださったのかはっきりとはわかりませんが、そのことに関して、いつも感謝の気持ちを忘れないでしょう。」山下の演奏を目の当たりにした聴衆なら誰でも、彼がいかんなく才能を発揮したために皆が感動したことを知っている。楽器の中でも最も音の響きの穏やかなアコスティック(クラシック)ギターが、ドボルザークの雄大な<新世界>交響曲のサウンドをうなり響かせたことはかつてない。(山下は第二楽章を演奏)

 その時の演奏以来、山下は主として交響曲へのディヴィット・アンド・ゴリアス的なアプローチをすることで知られ、世界的な名声を博するようになった。繊細なアコスティック(クラシック)ギター1本だけで、彼はムソルグスキーの<展覧会の絵>ストラヴィンスキーの<火の鳥>リムスキーコルサコフの<シェエラザード>などの大曲に挑戦してきた。(添付記事参照)

 明らかに、彼はとどまるところを知らない。

 「それでも、このような大曲をギターで弾くことが、かなり挑戦的なことであるということは、意識していました。」長崎の彼の自宅から通訳を通して彼は語る。

 「それがたいへん新しい方法であり、同業者たちが、行き過ぎだと思うかも知れないこともわかっていましたし、公開の場でこれらの作品を発表しようとするに至るまでにはまわりの人たちの意見も聞きました。」

 「そして実際にやってみようと決心してからは、実に注意深く、かつ真剣な態度で取り組みました。これは冗談でやっているのではないのだと。」

しかしながら、彼の大胆な芸術に対しては、その離れわざの音楽的価値をめぐって賛否両論があり、賞賛と同時に愚弄の声も上がっている。ある批評家の最近の記事によると、「山下の広大無辺の大胆さは、人の空想を摘んでかきたてる。他のどの作品が編曲されていないというのか?ワーグナーの<ニーベルングの指環>のソロリコーダー版がすぐに思い浮かぶ。メシアンの6時間オペラ<アッシジの聖フランシスコ>などはどうだろう?」

 しかしながら、ほとんど全ての、強い信念の持ち主の人間がそうであるように、山下は思いとどまるところなどない。

 「ギターには限りなく大きい可能性が秘められている。でも、その可能性がまだ十分に引き出されていない。」と山下は語る。

 「私の仕事は、この測りしれない魅力を持つ楽器で新しい表現方法を試み、新しい方向性を見つけ出すことです。」

 彼は27年間の人生を通して、ずっとそれを行ってきた。日本で、音楽に深く関わる家庭に生まれ(彼の父はギターの先生だった)実際、彼は生まれてから、ごく数時間のうちにはもうギターの暖かい響きを聴いたであろう。

 「子供のころ、私の家には父にギターを習う生徒さんたちがいつも出入りしていましたので、ギター音楽に浸った環境の中で育てられました。」「そして子供心に、人間というものは誰でもギターを弾くのが自然なんだという一種の錯覚のようなものを持っていました。」「それは、話したり、食べたりすることを習うようなものでした。自分にとってはギターを弾くということが、人間として成長する過程でのまったく自然な分野の一つだったのです。」

 16歳になるまでに、彼は十分な技術を身につけ、今世紀最大のギタリスト、アンドレス・セゴビアに師事する機会を得た。年老いた巨匠と、若い芸術家が共有したその20分間が転機の一つとなった。

 「もちろん、マエストロ・セゴビアのレコードは小さい頃から聴いていました。しかし、実際に同じ部屋で直接、彼に聴いてもらうために弾いたことは、全体として全く違った経験でした。」

 「マエストロはギターを弾くことに関する基礎的なテクニックのアドバイスを与えてくれましたが、それよりもむしろ、マエストロの存在そのものに深い感銘を受けました。当時、私はまだ16歳でしたが、あのときに感じたセゴビアから漂う偉大な雰囲気を今でもはっきりと覚えています。」

 「それは1つの刺激でした。そしてギターこそ自分の人生かもしれないと自分いいい聞かせるのにも大いに役立ちました。」 ギターを職業にするかどうかは別の問題であった。何年間かは、どちらかというと目立たない状態で地道に活動し、契約できたところでは、どこででも弾いた。 ついに1985年、その道に入って8年近く経って山下はゴールウェイに出会った。ゴールウェイといえば、世界で最も愛されているフルート奏者の1人である。

 2人の出会いは、ゴールウェイのマネージャーによるものだった。彼は、山下のギターリサイタルを聴き、その音楽の強烈さが、ゴールウェイのよりリラックスしたアプローチを見事にひきだたせるものであろうと確信した。

 「私たちは、スイスで初めて出会いました。彼が、たいへん暖かい心を持った優しい人であることはすぐにわかりました。」と山下は、自分を最も主要な数々のコンサートホールに導いてくれた人物について語る。             

「私達は、あまり言葉を交わすこともなしに、すぐに座って一緒に音楽を創り始めました。そしてその時、私達は、これはとても素晴らしい組合せであることに気づいたのです。」ゴールウェイは、多くのクラシックのスーパースターと違い、彼の後輩と世間の注目を分かちあった。1987年のツアーでゴールウェイと山下はスターと伴奏者というよりは、もっと対等な形でステージに現れた。以来、山下の人気は熱いままだ。

 現在のところ彼は、海外コンサートツアーやレコーディングを依頼のほか、彼自身の興味の対象でもある日本のダンサーやジャズミュージシャンらとの共演やテレビ出演など全てを意欲的にかろうじてこなしている。山下は、現在どの作品を編曲しているのかという問いに対して明らかにしようとはしないが(ベートーヴェンの交響曲第5番は見当違いのようであった。)即座に、フェルナンド・ソルのギター曲全集のレコーディングを終えているとの答えが誇らしげに帰ってきた。当然のことながら、CD16枚にも及ぶほどの偉業を試みる音楽家はきわめて希である。

 もし山下の切実な夢についてあげるとするならば、それは、セゴビアが常に心に抱いていたものと同種である。とにかくギター音楽をもっと多くの人々に届けること、ギターよりも音量があり、ギターほど繊細でない現代の他の楽器との格調高い組合せとしてのギターを確立することである。

 「韓国、ホンコン、台湾や他のアジアの国でのコンサートに行くとき、アジアにはまだあまりギタリストがいないことについては残念だと思います。」「それでも3000人の聴衆を目の当りにするとき、将来、優れたギタリストが聴衆の中から育つことことはもちろん期待できるし、そう信じてもいます。そうでなくてはいけない。」 「私にとって1つの願いは、ギターを通して、自然と人間との感動や美を表現することにあります。」「このことは、どんなことが起ころうとも、生涯をかけてやっていくつもりです。」

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