ロサンゼルス・タイムズ 1989年 4月13日 By Lawrence Christon (日本語訳)

山下和仁(28)と彼のギターが金曜日UCLAのロイスホールでスポットライトを浴びる。

崇高さがわれわれの生き方に融合するように音楽を役立てたい・・・山下和仁

TUCSON・・・・・・・・細長く柔らかい巻毛の学生が、アリゾナ大学のクラウデンホールの通路を歩きながら、彼のガールフレンドに、日本の山下和仁について話しかけていた。山下といえば、アメリカ国内ツアーの一環として、このアリゾナ大学で弾いたばかりで、次は金曜日にUCLAのロイスホールで演奏することになっている。

「焼けつくようなんだ!」

 山下のクラシックギターコンサートを最初の半分でも聴いたものなら誰でもする典型的な反応である。そのコンサートで山下はF.ソル、J.S.バッハ、B.ブリテンによる数々の作品を披露した。聴衆が見た狂ったように無我夢中にギターを弾くその音楽家は、時折、顔や首をギターの共鳴版のあたりに低く沈め、まるでギターが空中に浮き上がるかのように、その楽器を、高々と振り上げる。

 ほとんどのギタリストというのは、時計でいえば2時を指すような首の位置で、ただ自分がしていることを見つめるだけだ。山下の奮闘ぶりといえば、あたかも音楽の流れが、普通ではありえない心の旅に彼をかりたて、夢中の境地、苦痛、乱れたような思考を通り越して、空高く、創造もつかないような心安らかな世界へと解放するかのようだ。

 「彼は創意に富み、勇猛果敢だ。いつも大反響だ。」と、アリゾナ大学のギター課の長であるトム・パターソンは語る。

 聴衆はその後に何が起こるのか、聞かされていなかった。演奏会の後半は、ドボルザークの<新世界>全曲の完ぺきで並外れた演奏で、会場内の誰をもうならせた。1つの完全な形の交響曲の雄大で大建造物的体系全てを、たった1つの楽器で引き出してしまう・・・・そんなことをギターでやろうなどとは誰も普通は考えるものではない。 それこそが山下なのだ。彼は28歳にして、フルートのジェームズ・ゴールウェイとのデュオアルバム<イタリアンセレナーデ>や、<ミュージックオブスペイン>と呼ばれるソロアルバム、また妹の尚子とのリムスキー・コルサコフ、ドビュッシー、フランセの曲目によるギターデュオアルバムを

も含め(彼はまたジャズギタリストのラリーコリエルともコンサートを行った)、アメリカと日本を合わせ40枚のアルバムをレコーディングしている。

 しかし、彼が独自に編曲したムソルグスキーの<展覧会の絵>のソロ演奏で一身に注目を浴びたのは、1980年、彼がまだ19歳の時であった。それはまさに烈火のごとく、完全に予想外の創造力に富んだツアーだったので、ギターの世界は、あたかもF1レースのサーキット・ドライバーらが、フェラーリが初めて彼らの目の前に突き進んでくるのを見つめたのと同じように、ただただ驚嘆してそのツアーを迎え入れた。

 これが、アンドレス・セゴビアから20分間の指導を受け、ナルシソ・イエペス、やホセ・トーマスそして日本人教授コウジロウ・コブネから数時間、あとは独学でギターを学んだ彼の父からずっと指導を受けているという1人の若者から巻起こったことなのだ。

 ステージから降りた山下には、ギターを弾いている時にみられるような途方もない大胆さを臭わせるものは何もない。彼は均整がとれ、中背よりはいくらか低めの、丸い頭に黒々とした髪の持ち主だ。コンサートアーチストのみならず、外交官集団の一部の人々にあるような丁寧さを身につけている。つまり彼は、優雅に見えすぎない程度に上品なのだ。

 ロスアンゼルスへ向かう機内で山下は、彼の父が元々は三菱造船所のエンジニアであったが退社して和仁の誕生の地である長崎に長崎ギター音楽院を創立したということ、そして彼の最初の頃のコンサートは、彼の父や友人に対して行われたことなどを、英語で懸命に説明してくれた。

 彼は、スチュワーデスが彼のクラシックギターのラミレスを頭上の棚にいれてしまおうとしたとき、怒鳴るようなことはしなかった。そしてギターを座席に降ろしてしまった後、彼はどういった理由により10歳の時から日本国内のコンクールに出るようになったのか、また15歳にして日本ギターコンクールで第一位を受賞するに至ったことなどを話してくれた。

 1977年は彼にとって大きい年であった。8月スペインのラミレスギターコンクール、9月のイタリーのアレッサンドリア国際ギターコンクール、そして10月にはパリ国際ギターコンクールにおいて、全て第一位を受賞。日本に帰ってみると、彼はすでに有名人になっていたのである。

 彼の賞賛する数多くの音楽家についても話してくれた。ジュリアンブリームについても、とても幻想的で素晴らしいと述べた。彼はいくつか質問をしようともしたが、英語での会話に疲れてしまったようだ。彼は楽譜を取り出しバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第6番の編曲楽譜書きを始めた。彼は今年、そのソナタ全曲をレコーディングすることになっているのだ。翌日、ロスアンゼルスでは、UCLAの民族音楽家ヨシコ・オカザキの通訳を通して、彼の人生や音楽についてさらに深く語ってくれた。「私は2つのきっかけによりギターを始めるようになりました。私が物心ついた頃には、もう家中で父(山下亨)やその友人達が弾くギター音楽が鳴っていましたので、私にとってはギターを弾かないということは人間であることを否定するに等しかったんです。それから<禁じられた遊び>という曲に出会ったこと。それはとても美しく、自分もそれを弾いてみたかったということがありました。」

 「学生時代はごく普通の生徒でした。ただ、宿題はしないで、その時間をギターの練習に当てていました。・・・・・いずれにしろ、宿題にはそれほどの意味がないと考えていましたので。職業という点では、何か別の仕事を選ぶことも可能だったのですが、もうそのころはギターは完全に私の一部になっていましたし、周囲の人たちの期待もありましたので私は芸術というものをさらに探求し、経験を積みたいと思うようになりました。ギターの練習については、教則本などを使ったことはありませんでした。いろんな曲を聴いて、それを自分でも弾きたいと思ったときにそれを練習し、うまくいかないところを父に質問しました。父は演奏家ではありませんが、とても良い先生です。父からは今でも教わっています。」

 山下は西洋音楽の作風を取り上げるただ一人の音楽家というわけではもちろんない。(戦後の日本には、クラシック同様、ジャズ、ポピュラーミュージックへの渇望もある。)なぜ東洋のこの地域が西洋にそれほど目を向けるのかという問いに対して、彼はこう答えた。「私たちはたいへん順応性のある国民なのです。昔、私達は中国の音楽を取り入れました。西洋音楽を聴いたときはそれに順応したのです。日本人は他の文化について同情や共感の念を持っていて、それにも手を伸ばすのだと思います。」

 彼はどうして<展覧会の絵>のための法外に驚くべき編曲を思いつくに至ったのかについて話した。それはほとんど完全に内緒で創作され、そして友人達のせきたてる激励によってレコーディングされた。

 「私は、いつも、自分の耳にはいってきたものは、それがクラシック音楽であろうともやTVや映画の音楽であろうとも、弾きたいと思ったものを弾いていました。私は、音楽を分離するときに、これはピアノのためのもの、あるいはこれはオーケストラのためのものという風に分けて思ったことはありません。私はいつもなら(曲の中の)あるメロディーのみを弾いて楽しんでいました。でも<展覧会の絵>の場合には全曲を弾きたくなったのです。ギターは、音色やトーン、ダイナミック、シンフォニックな表現という点で、非常に大きい可能性を持っています。私はまた、もっと長い大曲を弾きたかったのです・・・・1曲が40分もかかるような。それは挑戦でした。私は演奏中、別の次元に行っているようで、曲にあまりにも勢いよく取り掛かるため、それはある種の旅をしているようです。曲の終わりには曲を始めたところにちゃんと戻ってくる。」

山下は彼の将来についてコンサートアーチストの普通の望みをかなり超越している大念願を持っている。「自然科学や経済社会がこんなにも発展している我々の時代にあって、崇高さがわれわれの生き方に融合するように音楽を役立てたい」「芸術や音楽への信頼は、この時代の世界のためにとても重要です。」と彼は語る。

 ところで長崎という名前は今や現代社会の身震いの隠喩としてただちに考えられる。そこで育ったことは、現代のパラノニア(精神病における偏執病)の戦闘の象徴として、核焼却によって故郷を終端にもっていったということを心に止めているのではないか?

 彼は答えた。「私は過去のことについて日常的に特に何かを感じてはいない。」「でもおそらく、潜在意識として、そこには何かがあるでしょう。長崎での平和への願いはとても強い。そこは美しい都市であり、さらにカントリーな地方でもあります。

もし私が東京に住むと片方向しか物事が見えないと思います。もし私が地方に住めば、世界の動きを見ることができる。」

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