日本の若手ギタリスト、山下和仁はホロヴィッツ、レヴィンなどピアノの名手から連想されるようなヴォルテージの高いテクニックを持っている。ということは彼らのように時として山下は指の方が意志に選考して動いてしまう。例えばジュリアーニの「大序曲OP61」やブリテンの「ノクターナル」では混濁した音のファズが聴かれた。
しかし彼の演奏のパワーとスケールを考えるとき、それはささいな言いがかりに過ぎない。他のギターとは違い、山下は(ごく当然のことであるが)単に自分と最前列に座っている自分の友人のためにというのではなく、聴衆全体に向けて演奏する。コンサートの最初から山下は、ロッシーニのオペラ序曲があたえるような、期待感でわくわくした感情をジュリアーニの大序曲でおこしてくれた。それはメロディの印象は薄いものの、山下の解釈によるエネルギーの沸き立つ音楽であった。
そしてこの芸術家の他の面は、第一部に残る3曲の中に現れた。夜の大気を思わせる微妙この上ない陰影や繊細に区切られたフレーズを使いこなす能力などがそれだ。先ずRの「祈祷と踊り」(ファリャに捧げる)で、次に武満のフォリオス(バッハのコラールが最終部分でどっしりと装飾されて現われる)、そして(これも最後に古いダラウンドのリュート曲Come Heavy Sleepを引用)において。山下は陰影の深いデッサンのように、余分なものをそぎ落とし、ギターという楽器の永遠のソノリティを感じさせる演奏は、それでいて、最高列に座っている聴き手をも、しっかりと包んでいた。 山下自身の編曲であるムソルグスキーの「展覧会の絵」はギター界では既に伝説になっている。この演奏では、時にピアノ原曲やラヴェルのオーケストラ版では容易に表現可能な強烈なコントラストをギターによってつくる為に、多少の誇張が要求される。しかし山下によって、ギターがマンドリン,リュート,ツィンバロンにそして(最後の部分で最も適格に)バラライカに響きを変えるソノリティの変幻自在には、ただ魅了されるばかりであった。彼のギター編曲は、これ以上ムソルグスキーに近ずけないところに到達している。またその演奏も他をよせつけない妙技であった。