ベアリンスケ ティーデンテ紙 (コペンハーゲン) 1990年 10月11日 (日本語訳)

「混雑した音色」

10月11日付 ベアリンスケ ティーデンテ紙 記事

ギターの天才 奇跡!

日本文化週間の一環として火曜日の夜、ガンメル・ドックで行われた山下和仁ギターリサイタルにおける同氏の演奏は、形容する言葉もみつからないほど素晴らしい演奏であった。彼は、卓越した音響感と多量の、そして暖かいニュアンスのあるギターの音色を持ち合わせているだけでなく、指の動きの敏捷さには感嘆すべきものがあり、ギターという楽器を使ってかくもたくみな指の動きが可能であるとは考えてもみなかった。

 山下氏は技術的には圧倒的に素晴らしく、かつ斬新な演奏を行った。同氏の演奏は、前世紀の巨匠フェルナンド・ソルが期待したであろうと思われる力量をはるかに越えており、このため、ソルのヴァリエーションによるモーツァルトのopus 9.も当夜のプログラムへの静かな序曲の如く感じられた。しかし、山下氏が師事した作曲家武満徹の1974年の作品Folio Ⅰ、Ⅱ、Ⅲでさえ山下氏のテクニックを十分に活用してはいない。もし山下氏が自分のギターでどのような演奏ができるか見せたい場合には、他の楽器用に作曲され、彼自身がギター用に編曲した曲を演奏しなければならないだろう。

 多少逆説的な話になってしまうが、彼は、自分の楽器の持つ能力の限界をはるかに上回る演奏を行っているため、レパートリーの範囲を狭められている。従って、山下氏自身が編曲したバッハのチェロ用コンチェルト6番やドヴォルザークの第9交響曲に至っては、この矛盾は、幾分悲劇的にさえなっている。

 ギターで演奏されたバッハのチェロ音楽は、次第に弱まっていく音色の全てが、がちゃがちゃと響きわたりながら、洗練されたかつ極限的な速さで演奏されることとなった。山下氏は、このような演奏を楽々とこなし、技術的な限界も皆無である。しかしながら、バッハが作曲した音楽と比べ全ての音が一時的に分解して響いてしまう。更に、ドヴォルザークの「新世界」に至っては、ほとんどの音が6弦に転音されているにもかかわらず、グロテスクでさえある。この曲では、ギターがみじめな響きを持つ楽器に変えられてしまい、全ての音が混雑した状態でかき消されており、いっそのこと山下氏がオーケストラを指揮した方がよいと思うほどである。

 しかし、山下氏にとってそれは不可能である。何はともあれ山下氏は、現在世界一流のギタリストであるから。

 又、彼は、世界一流の作曲家に彼自身のための作品を依頼することも無理であろう。彼のギターの技術、才能を十二分に生かした作品を作ってくれる作曲家はおそらく皆無であろうから。山下氏の国際的コンサートに集まる聴衆は、現代音楽を聞きにくるのではなく、むしろ「新世界」や「展覧会の絵」――そして、次は多分チャイコフスキーの「悲愴」あたり――を求めてやって来ると思われる。

 このような状況は、解決困難であり、我々は音楽的楽しみを求めて博物館的作品にこのような変形を強いようとしている。

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